街
2024/8/28
韓国釜山へランドスケープの旅-2
翌日は古都慶州に移動して歴史地区の古墳群などを見学した。以前訪問したときに比べ周辺には店舗が連なり、まるで原宿のような街なみになっていた。私が最初に来た1980年の前半頃は周りは原野で何もなく、いかにも遺跡エリアの風情に満ちていたが、様変わりしていた。観光客はお茶を飲み、友と話してくつろいでおり、駐車場は車でいっぱい。まるで古墳は店舗の添え物になったような感じさえした。
その日から、大邱カソリック大学の金敏洙先生が同行することになった。先生は日本の大学で博士を取得した後、韓国に帰るまで数ヶ月の間、私の事務所に在席しており、それからの長い付き合いである。慶州を訪問した私たちグループはランドスケープの専門家たちだが、この古都の離宮である雁鴨池や鮑石亭の流水も見学しないで今夜の宿に向かった。
賑やかな観光地を離れると辺りは静かな田園風景となり、空気も少しひんやりとしてくる。宿は朝鮮時代の様式を持つ数軒の古民家で、家主が他所から移築したものであった。家主は古い文化に興味を持って活動を続け、歴史書を著すと同時に文化の保存、活用の活動も行っている。
宿泊する建物に通されると中央に居間、左右に一室ずつ部屋があり、床は日本で言えば床暖房のような伝統的なオンドルとなっている。熱効果を良くする為か寝具は薄く床が堅くて慣れていないと寝れないようで、今夜お酒の力を借りることになりそうだ。
食事は総勢15人ほど、屋外のテーブルで韓国定番の焼肉。暮れなずむ中、お酒(マッコリ)と食事で団らんは弾んだ。終わり頃、宿主が近くに「女王の墓」があるので皆で行こうと提案。何だか胸騒ぎがしたが、肝だめし思い興味津々で後を追う。最初に出会った墓は小規模で周囲に樹林がなく明るいので平気であった。
次に近道と称して暗い竹藪の中に入り進んで行くと、田んぼに出てホッとする。その先を歩いて行くと、段々勾配がキツくなり林の中にすっぽり入る。もう足元をしっかり見ていないと危ういほどの暗さになっている。もう、うんざりするほど歩くと正面にぽっかりと空間が開け、円墳が見えて来た。基壇は石積でしっかり回した、かなり大型の墓である。辺りはいっそう暗くなり風に少々ゆらぐアカマツに囲まれた円墳だけが薄明かりに浮かび上がる、本当にどんどん怖くなってくる。ここは夜一人では絶対に来れない場所だ。
おもむろに宿主が解説らしき話しを始めるが、訳してくれないから何のことか分からない。早く終わってくれないかと祈っていると15分ほどでやっと終了。と思ったのだが、やおら横笛をポケットから取り出し演奏が始まる。これが物悲しい音色で、少々たどたどしいから心にズキズキ入ってくる。おまけに寒くなってきたので生理現象が…。
やっとの思いで宿に帰り、夢を見ないように自分に言い聞かせて眠りについた。
翌朝、気持ち良く目覚め近くの尾根を散策、帰って食卓について腕を見てびっくり、ジンマシンが出ていたのである。私はジンマシンが一度も出たことがなく、食事なのか、散策中の虫なのか、女王様の○○なのか、不思議な体験を多くした民俗村であった。
翌日は文化財の良洞村を見学。合理的な配棟計画による美しい村落風景を堪能した。中でも両班一族の長から話しを聞き、記念撮影をしたことが記憶に残った。彼は100年前の顔や体格を保存しているようで、威厳を持って周辺の風景に溶け込んでいた。
最終日は釜山市役所での講演会で、多くの聴衆が集い盛況であった。釜山市長は緑化行政に熱心で金承煥先生と、とても懇意にしている。市長のスピーチの後はティモシー・ビトリー教授「バイオフィリックシティ構想」が主体で、釜山市の環境問題の未来を総括していただいた。
今回の旅行で改めて友人の大切さを胸に刻んだ。韓国の3人の友人は30年以上前からの付き合いで、会うと昨日も話しをしたような気持ちになった。1990年代頃は韓国からの留学生が多く、盛んに交流していたのに、いつの間にか疎遠になってしまった。元々漢字を使う東アジア文化圏の一員として、もっと交流したいと思える旅であった。
戸田 芳樹

大古墳を見る

外での夕食は楽しい。後の建物に宿泊

散策の道はアカマツの林

良洞村の美しい風景

建物の前で主人と記念撮影 左端が金敏洙先生

良洞村の中心にある亭子木









